外の世界も内面と同じように、日本人にとっては輝いていた       小泉八雲 

日本は雨の多い国です。
この雨は日本人の感性に大きな影響を与えてきました。
雨に関しての言葉の多種なこと!
そして、視覚的なところでは
日差しの強い国と違って「コントラスト」がゆるいのです。
だんだんと変化していく
「グラデーション」を日本人が好きなのは
小さな小さな霧のような水の中に漂っているような感覚がいつもここにあるからでしょう。

小泉八雲が日本人が影を好まないというのは
心理的にも
影を好まないと言っています。
 
影を感じていない人生
すべてがゆったりとここにある世界観







日は高く、私の後ろにある。眼の前の眺めは、日本の古い絵本にあるのとそっくりだ。日本の古い絵本には、決まりとして影は描かれない。肥後平野も影ひとつとてなく、緑が地平線の彼方まで広がっている。そこでは遠くの山々の青い峰が蜃気楼の中で揺れているようである。けれども、大部分は同じ色合いではなく、緑色のグラデーションで彩られている。それは濃淡の色調で継ぎ合わせられて、あたかも刷毛はけで光の帯のように長く塗ってそれぞれが互いに重なりあったさまをなしている。これもまた、日本の絵画にある光景を思わせるようである。
 読者の皆さんは、このような本をはじめて開いたとき、はっとした印象を――つまり驚くべき感じを抱くに違いない。そして、それは「日本人の「自然」に対する感じ方や見方はどこか不思議で、またなんと珍しいものだろう」と思わせるのである。この疑問が大きくなって、あなたは、「日本人の感覚というのは私たち西洋人のとまったく違っているのだろうか?」と問いかけるだろう。そう、それは実際ありえると言える。だが、もうちょっと絵本を見て欲しい。そうすると、そこには、前の二つの疑問を肯定して、三つ目の、そして究極の考えが輪郭を現して来よう。あなたは、この絵は同じような光景を描いた西欧の絵よりももっと「自然」に近いものであって――西欧の絵画が与えることのできないような「自然」の感覚を生み出している、と感じるに違いない。この中には、じつにあなた方が発見できるあらゆるものが含まれているのである。しかし、そうする前に、もう一つの謎に首をかしげるだろう。たぶん、こんな風にである。「これらは不思議と生き生きとしている。この、えも言われぬような色彩は「自然」そのものである。でも、物事がとても霊的に見えるのはどうしてだろうか?
 それは、もっぱら絵の中に影がないからである。それをそうと意識させないのは、色彩の価値を認めていることと、そこに用いられている驚くべき技法のためである。しかし、場面は一方の側から照らされているかのように描かれているのではなく、光で周りを照らし出したかのように描かれている。風景がこのような眺めに見える、その瞬間が本当に存在する。だが、西欧の画家たちはほとんどと言っていいほどこのことを研究してこなかったのである。
 とはいえ日本人が古くから月が作り出す影をで、その様を描いてきたのも事実だ。これは、月影は神秘的で不思議なものであり、色彩があっても別に構わなかったからである。けれども、日本人は、太陽の下にある世界の美しさを黒くし、また台無しにするような影を喜ばなかった。彼らにとって、日光の下にある景色が影によってまだらにされるのは、ただ薄い影によってだけである――あたかも夏の雲の前を走って逃げてゆく半陰影のように、濃淡をわずかに深めにすることで表現される。外の世界も内面と同じように、日本人にとっては輝いていた。彼らは心理的にも影のない人生を見てきたのである。
 それから、西洋人たちが突如、仏教徒たちの平和に入り込んできて、彼らの芸術品を見て、それを買い漁った。それは残されたもののうちで、一番良いものを保存しようとする帝国の法律が発布されるまで続いた(1)。ところが、もう買うべきものがなくなったとき、また新らたに描かれてしまうと、すでに購入した芸術品の価値を減少させることになると分かるや、西洋人たちは言った。「おお、どうしたことでしょう! もう描いてはいけません、そんな風に物事を見てはだめです、分かりましたか? そんなものは芸術アートじゃありません。実際に影を見るようにしなくちゃなりませんよ。――お金を払えば教えてあげましょう。」
 かくして、日本人たちは、自然や人生また思想における影をどのように見るべきかを学ぶために授業料を払った。そこで西洋が教えたのは、神聖な太陽の唯一の仕事は安っぽい影を作ることだった。また、西洋は、より高価な影は西洋文明が作り出したものでなければならず、そして、それを賞賛して採用するように命じた。そうして、日本は、機械と煙突それに電柱の影を見て驚いたのである。鉱山や工場の影、またそこで働く人々たちの心の中の陰影。そして、二〇階建ての建物の影やその下で物乞う貧民の影。貧困を倍加するたくさんの慈善事業の影や悪をたくさんはびこらせる社会改良の影。誤魔化しと偽善、それにお偉い顕官けんかんたちの燕尾服の影。火刑ひあぶりにするために人々は造られているのだと公言してはばからない外国の神の影を見て驚いた。その結果、日本人はかなり真剣に反省し、これ以上の影絵を学ぶのを拒絶するようになった。世界にとって、幸いだったのは、その唯一無比の芸術に回帰したことである。また、日本にとって幸運だったのは、本来の美しい信念に立ち帰ったことである。けれども、いくつかの影はもうすでに日本人の生活にまとわり付いているので、それらを取り除くことは難しいであろう。また、日本人にとっては外の世界も以前と同じように本当に美しいとは思えないものになってしまっている。






翻訳の底本: "THE STONE BUDDHA", in OUT OF THE EAST AND KOKORO, by Lafcadio Hearn (The Writings of Lafcadio Hearn, Large-paper ed., in sixteen volumes vol. 7), Rinsen Book, 1973.Reprint. Originally published. Boston: Houghton Mifflin, 1922.
入力:林田清明
校正:林田清明

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