シュタイナー『天地の未来』 弥勒の世界の到来 より

エーテル視力

キリストは絶えず私たちの周囲にいる、と言われてきました。「私は世界の終わりまで、いつも君たちとともにいる」と、キリストは言っています。いま人間は、キリストを見ることを学ぶべきです。

そして、私たちが見えるものは真実ある、と信じるのです。このようなことが 20世紀中に始まり、これから2千年のあいだに多くのの人びとがこのような体験をするでしょう。

たとえば、「私たちは地球をどう見るか」と問いましょう。科学は地球を、カント=ラプラス理論(注/1755年に発表された「太陽系の生成」などについての「星雲説」と呼ばれる説)などによって、機械的・物理的・化学的に叙述しています。

いま、私たちはこの領域で見解の転換を迎えようとしています。地球は単に鉱物的な力ではなく、植物的な力、つまりエーテル的な力に由来するという見解が登場するでしょう。

植物は地球を中心に向け、上部は太陽と関係しています。この力が、地球を地球たらしめています。重力は二次的なものです。

石炭がかつて植物であったように、植物は鉱物以前に存在していました。この事実はまもなく発見されるでしょう。

植物が地球に形態と実体を与えています。その実体から鉱物的な地面が発生します。この教えは、ゲーテの植物形態学に端を発します。しかし、彼の教えは理解されませんでした。

人間は次第にエーテルを見るようになっていきます。エーテルは植物に特有のものです。植物界の成長力を、人間は自分のうちに受け取るようになるでしょう。そうすると、いまキリストを見ることを妨げている力から人間は解放されます。精神科学は、そのために協力します。

しかし、物質からエーテルへの上昇は人間の内面と関係しないと思っている限り、このようなことは不可能です。

実験室では、人間が道徳的に高いか低いかは、どちらでもいいことです。しかし、エーテル力を扱うときは、そうではありません。道徳的な要素が、製造品のなかに入っていきます。人間がいまのままにとどまっていると、この能力を発展させるのは不可能です。まず、実験台が祭壇にならねばなりません。

ゲーテは子どものころ、自然の産物で集めて作った小さな祭壇の上に置いた香蝋燭に集光レンズを使って日の出の光で点火しました。

まもなく、「私ではなく、私のなかのキリスト」と言うことのできる人々が、植物の力を組み合わせることができるようになるでしょう。いま人々は、鉱物的な力を組み合わせています。

人間の内部は、外界と相互作用をします。外的なものは、私たちの目が澄んでいるか濁っているかによって、姿を変えます。

20世紀のうちに、そしてこれから2千年後のあいだに、人々はキリストのエーテル形姿を見るにいたるでしょう。人々はエーテル地球を見るようになるでしょう。エーテル地球から植物界は生じました。

人間の善良な内面とは異なった影響を周囲におよぼすということも、人々は認識するでしょう。このエーテル的な科学を司るのは、およそ3千年後に下生して成仏する弥勒菩薩です。

弥勒という名は、「善良な志操の仏」という意味です。弥勒仏は人間に、善良な志操の意味を明らかにします。そうして、人間は自分がどの方向に行くべきかを知るべきでしょう。

抽象的な理想の代わりに、前進する進化に相応する具体的な理想が現れるでしょう。

そのようなことが達成されなかったら、地球は唯物論のなかに沈没し、人類は大きな災害ののちに、この地上で、あるいは次の惑星ですべてを新たに始めねばならないでしょう。

IN deep さんよりの記事です