ラベル 美し日本、大切にこの時を生きる の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 美し日本、大切にこの時を生きる の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

生まれてきた子達たちとお母さんへ




私の子どもは私を通じてやってきたけど、私のものではありません。



私のところへよくぞ来てくれました。

彼女たちのおかげでと人生はよりユニークで面白いものになっています。





私の失敗を、一番快く素直に「うん、いいよ。許してあげる」と言ってくれたのは彼女でした。



こんなにいとも簡単に許してくれることに心から感動して、涙が出ました。

許すことを教えてくれたのは小さな彼女でした。



今も失敗している私を許してくれています。





結婚もしていない頃、ある人が言いました。

「足の親指より一刺し指が長いと親より立派になるよ」





「それは当たり前のことでしょ。親より成長してないなら人類の進化は望めないから」と



当時は思いました。



私の母は自分と離れて行って成長していく私を見て悲しく思っていました。

一緒にテレビドラマを見て、身近な人ののことを話題にするような生き方以外に他に生き方があるとは想っていませんでしたから。



でも、母は私を自由にしてくれました。



おかげで私の足の人差し指は親指よりも長いのです。







母という面白い体験をさせてくれた子どもたちにはいつも感謝してます!





母親である皆さん、このことを楽しんでください。







次にOSHOの言葉を転載させてもらいました。


角錐のひかり より転載です





全く新しく在りなさい。自分の母親から学んだことはすべて忘れなさい。



質問:





多くの女性が母親であることを、ひとつの義務と考えています。



そのような態度では、子供は負担になってしまうでしょう。



どうすれば母親であることに、より大きな喜びを見いだせるでしょうか?



母親にとっても、そして子供にとっても。







osho





母親であることを義務と考えてはいけない。



それを義務と思ったが最後、何かが死に、とてつもない価値を持つ何かが消えてしまう。



その関係性が壊されてしまう。



それを祝福と捉えなさい。





子供は存在からの贈り物だ。



子供に敬意を払いなさい。



ただ愛情をかけるだけでなく、敬意を払うのだ。



もし敬意を払わなければ、愛は所有になってしまう。



敬意を払っていたら、どうして所有することなど出来よう? 

 



尊敬している相手を、所有することは出来ない。



その考え自体が醜く、無礼だ。



人を所有することは、人を物におとしめる行為だ。





そして、ひとたび子供があなたの所有物になってしまうと、



あなたは重荷を背負うはめになる。



その時、それは果たさなければならない義務へと変わってしまう。



母親達は、自分達がどれだけ大変なことをやってきたかと、生涯話し続ける。





真の母親は、自分がしたことについては何一つ語らない。



しかも語らないというだけではない。



彼女は自分がそれをしたと感じることもない。



彼女はそれを楽しみ、子供に対して感謝しているのだ。





それは子供の誕生だけではなく、同時に母親の誕生でもある。



一方では子供の誕生だが、もう一方であなたの母性が誕生を迎えているのだ。



子供はあなたを劇的に変化させてしまった。



子供はあなたに何かを与えてくれた。



あなたはもはや同じ人間ではない。



女であることと、母親であることには途方もない違いがある。





だから愛しなさい。



敬意を払いなさい。



そして子供の妨げにならないよう、成長の手助けをしなさい。



それは一番初めから気をつけなくてはならないことだ。



そして、いいかい。



自分の母親から学んだパターンを繰り返してはならない。



そうなるのは自然なことだ。



なぜなら、それがあなたの知っている母親像であり、



自分の子供にも同じ行為を繰り返すだろうからだ。



そして、そうなるのはよくない。 

 



全く新しく在りなさい。



自分の母親から学んだことは全て忘れなさい。



新しいやり方で子供に応えなさい。



愛を与えなさい。



だが決して枠組みを与えないこと。



愛を与えなさい。



だが決して人格を与えないこと。



愛を与えなさい。



だが自由は手付かずのままにしておくこと。





愛することが、子供の自由を侵害することになってはいけない。



こんなにも小さな子供の自由を考える人はどこにもいない。



だが、それではいつになったら考えられるだろう?



明日になっても子供は小さいままだ。そして、明後日になっても。



実のところ、あなたは自分の子供が自由を獲得できるような、



成長した人間であるとは絶対に考えない。





絶対に。





なぜなら、あなたと子供の年齢差は、常に同じままだからだ。



その差が20歳あれば、それはずっと20歳のままだ。



それならば事の始めから子供に敬意を払い、自由を与えなさい。 

 



ときに子供が泣いたとしても、心配することはない。



ほんの少しの間、一人で泣かせておきなさい。



いつも慌てて、準備万端待ちかまえている必要などない。



それは愛のように見えるが、実際あなたは子供の自由に干渉している。 

 



子供は時々泣くことを単純に楽しんでいる。



それが自分自身を表現する唯一の方法だからだ。



わめき、泣き叫ぶ、それが彼の言語だ。



泣かせておきなさい・・・何も悪いことはない。





その子は世界と関係しようとしているのだ。



あやしたり、すぐに乳を与えたりしてはいけない。



空腹でない時に乳を与えるのは、麻薬を与えるに等しい。 

 

母親達は乳を一つの麻薬として使う。



乳を飲み始めるやいなや、子供は泣いていたことを忘れ、眠りに落ちる。



それは心地よいものには違いないが、あなたが干渉をし始めたというしるしだ。





子供が本当に乳を欲しがっているのでなければ、放っておきなさい。



そうすればプライマル・セラピー(感情発散療法)など必要なくなるだろう。



プライマル・セラピーで泣き叫んでいるのは、幼児期に干渉され、



一度も泣き叫ぶことを許されなかった人達だ。





子供にあらゆることを許し、自分自身であることを感じられるようにしてごらん。



子供の行く道から少しずつ手を引いてごらん。



手を貸してやるのはいい。



だが育みながら、子供がひとりでに成長するよう、見守ってごらん。





時々、子供が間違ったことをやろうとしていると感じた時でさえも、



あなたは判断を下す立場にはない。



あなたから見て子供が間違ったことをしていたとしても、



それは単に「あなたから見て」というだけの話だ。



それはあなたの意見であって、子供は間違っていないかもしれない。



その子はあなたの意見に従う為に、この世に生を受けたのではない。 

 



子供は無力だから、あなたの意見を押し付けるのはいともたやすいことだ。



子供の生死はあなたにかかっていて、彼はあなたの言うことを聞かなくてはならないからだ。



あなたが「止めなさい」と言ったら、どんなにそうしたいと



思っていても子供はそれを止めなくてはならない。



あなたに逆らうのは危険だからだ。 

 



真の母親は、自分の子供に大きな自由を与える。



たとえ母親の意に反することをしようとしたとしても、その子は自由を与えられる。



子供にはっきり言っておきなさい。



「それは正しくないというのが私の考えだけど、お前がそれをするのは自由だよ」と。



子供に自分自身の経験を通して学ばせなさい。 

 

そうやって人は真の成熟を迎える。





でなければ人々は幼稚なままだ。





年の数は増えるかもしれないが、彼らの意識が成長することはない。





肉体的な年齢は50歳かもしれないが、頭の中は7歳で止まったままだ。



そうしたら彼らは成長するのを止め、ただ従うだけになる。 

 

あなたの愛を与え、経験を分かち合いなさい。



だが、決して何も押し付けないこと。



そうすれば、その子は素晴らしい人間に育つだろう。





成長する為には保護することと、しないことの両方が必要だ。



庭師が草木を育てるのを見てごらん。



彼は手を貸し、そして草木を保護する。



だが日の光に当たり、雨に、嵐に、さらされるという自由も与える。



戸外に待ち受けるあらゆる危険から守る為に、草木を屋内に入れたりはしない。



家の中に入れた草木は枯れてしまう。



温室の中の植物は不自然だ。





そして私たちは過保護な親達のおかげでみな温室育ちになる。 

 



子供を守ってはならない。





守らず放っておきなさい。





影のようについてゆきなさい。





世話をしてやりなさい。





そして危険過ぎる時には守ってやれるよう、バランスを取るよう心がけなさい。





だが、それほど危険ではないと感じた時には、好きにさせておきなさい。







子供が成長すればするほど、より大きな自由を与えなさい。

外の世界も内面と同じように、日本人にとっては輝いていた       小泉八雲 

日本は雨の多い国です。
この雨は日本人の感性に大きな影響を与えてきました。
雨に関しての言葉の多種なこと!
そして、視覚的なところでは
日差しの強い国と違って「コントラスト」がゆるいのです。
だんだんと変化していく
「グラデーション」を日本人が好きなのは
小さな小さな霧のような水の中に漂っているような感覚がいつもここにあるからでしょう。

小泉八雲が日本人が影を好まないというのは
心理的にも
影を好まないと言っています。
 
影を感じていない人生
すべてがゆったりとここにある世界観







日は高く、私の後ろにある。眼の前の眺めは、日本の古い絵本にあるのとそっくりだ。日本の古い絵本には、決まりとして影は描かれない。肥後平野も影ひとつとてなく、緑が地平線の彼方まで広がっている。そこでは遠くの山々の青い峰が蜃気楼の中で揺れているようである。けれども、大部分は同じ色合いではなく、緑色のグラデーションで彩られている。それは濃淡の色調で継ぎ合わせられて、あたかも刷毛はけで光の帯のように長く塗ってそれぞれが互いに重なりあった様さまをなしている。これもまた、日本の絵画にある光景を思わせるようである。
 読者の皆さんは、このような本をはじめて開いたとき、はっとした印象を――つまり驚くべき感じを抱くに違いない。そして、それは「日本人の「自然」に対する感じ方や見方はどこか不思議で、またなんと珍しいものだろう」と思わせるのである。この疑問が大きくなって、あなたは、「日本人の感覚というのは私たち西洋人のとまったく違っているのだろうか?」と問いかけるだろう。そう、それは実際ありえると言える。だが、もうちょっと絵本を見て欲しい。そうすると、そこには、前の二つの疑問を肯定して、三つ目の、そして究極の考えが輪郭を現して来よう。あなたは、この絵は同じような光景を描いた西欧の絵よりももっと「自然」に近いものであって――西欧の絵画が与えることのできないような「自然」の感覚を生み出している、と感じるに違いない。この中には、じつにあなた方が発見できるあらゆるものが含まれているのである。しかし、そうする前に、もう一つの謎に首をかしげるだろう。たぶん、こんな風にである。「これらは不思議と生き生きとしている。この、えも言われぬような色彩は「自然」そのものである。でも、物事がとても霊的に見えるのはどうしてだろうか?」
 それは、もっぱら絵の中に影がないからである。それをそうと意識させないのは、色彩の価値を認めていることと、そこに用いられている驚くべき技法のためである。しかし、場面は一方の側から照らされているかのように描かれているのではなく、光で周りを照らし出したかのように描かれている。風景がこのような眺めに見える、その瞬間が本当に存在する。だが、西欧の画家たちはほとんどと言っていいほどこのことを研究してこなかったのである。
 とはいえ日本人が古くから月が作り出す影を愛めで、その様を描いてきたのも事実だ。これは、月影は神秘的で不思議なものであり、色彩があっても別に構わなかったからである。けれども、日本人は、太陽の下にある世界の美しさを黒くし、また台無しにするような影を喜ばなかった。彼らにとって、日光の下にある景色が影によって斑まだらにされるのは、ただ薄い影によってだけである――あたかも夏の雲の前を走って逃げてゆく半陰影のように、濃淡をわずかに深めにすることで表現される。外の世界も内面と同じように、日本人にとっては輝いていた。彼らは心理的にも影のない人生を見てきたのである。
 それから、西洋人たちが突如、仏教徒たちの平和に入り込んできて、彼らの芸術品を見て、それを買い漁った。それは残されたもののうちで、一番良いものを保存しようとする帝国の法律が発布されるまで続いた(1)。ところが、もう買うべきものがなくなったとき、また新らたに描かれてしまうと、すでに購入した芸術品の価値を減少させることになると分かるや、西洋人たちは言った。「おお、どうしたことでしょう! もう描いてはいけません、そんな風に物事を見てはだめです、分かりましたか? そんなものは芸術アートじゃありません。実際に影を見るようにしなくちゃなりませんよ。――お金を払えば教えてあげましょう。」
 かくして、日本人たちは、自然や人生また思想における影をどのように見るべきかを学ぶために授業料を払った。そこで西洋が教えたのは、神聖な太陽の唯一の仕事は安っぽい影を作ることだった。また、西洋は、より高価な影は西洋文明が作り出したものでなければならず、そして、それを賞賛して採用するように命じた。そうして、日本は、機械と煙突それに電柱の影を見て驚いたのである。鉱山や工場の影、またそこで働く人々たちの心の中の陰影。そして、二〇階建ての建物の影やその下で物乞う貧民の影。貧困を倍加するたくさんの慈善事業の影や悪をたくさんはびこらせる社会改良の影。誤魔化しと偽善、それにお偉い顕官けんかんたちの燕尾服の影。火刑ひあぶりにするために人々は造られているのだと公言してはばからない外国の神の影を見て驚いた。その結果、日本人はかなり真剣に反省し、これ以上の影絵を学ぶのを拒絶するようになった。世界にとって、幸いだったのは、その唯一無比の芸術に回帰したことである。また、日本にとって幸運だったのは、本来の美しい信念に立ち帰ったことである。けれども、いくつかの影はもうすでに日本人の生活にまとわり付いているので、それらを取り除くことは難しいであろう。また、日本人にとっては外の世界も以前と同じように本当に美しいとは思えないものになってしまっている。






翻訳の底本: "THE STONE BUDDHA", in OUT OF THE EAST AND KOKORO, by Lafcadio Hearn (The Writings of Lafcadio Hearn, Large-paper ed., in sixteen volumes vol. 7), Rinsen Book, 1973.Reprint. Originally published. Boston: Houghton Mifflin, 1922.
入力:林田清明
校正:林田清明